
ベルンから(1909)
1898年、高校卒業と同時にドイツのミュンヘンに出たクレーは、同地の美術学校への入学をめざして、画家クニールの塾に通い始めます。翌年、彼は美術学校への入学を果たしますが、在学期間は短く、ベルンに戻り、半年間ものイタリア旅行に旅立ちます。ミュンヘンにいたころ、ある家庭音楽会で共演したピアニストのリリー・シュトゥンプフと秘密の婚約を交わし、1906年になって、リリーとの結婚を機にクレーはふたたびミュンヘンで暮らすようになりました。翌1907年には息子のフェリックスが誕生します。
リリーのピアノ教師の収入で家計をまかないながら、クレーは家事の大半を引きうけ、職業画家としての道を歩みはじめますが、1914年、友人の画家二人と共にチュニジアへ旅行、この時期を境に、クレーの絵画は大きな発展を遂げていきます。
しかし1914年は、第一次世界大戦が始まった年でもあり、大戦でクレーは親しい友人たちを失います。クレー自身もやがて従軍し、幸いにも前線へは行かなかった彼は、兵舎で絵を描き続けます。大戦中、彼は各地で展覧会を開き、クレーの名は徐々に知られるようになりました。
第一次大戦後のドイツに設立された総合造形学校バウハウスは、クレーを指導者の一人として招き、最も実り豊かなクレーのバウハウス時代が始まります。当初ヴァイマールに開校したバウハウスは、政治的な理由でやがてデッサウへと移転しますが、バウハウスの教壇に立ってちょうど10年を経た1930年、クレーは同校を退職する決心をし、続いてデュッセルドルフ美術学校の教授として迎えられます。
しかし1933年には、アドルフ・ヒトラーがドイツの政権を掌握、自身画家志望であったヒトラーは、ドイツの前衛画家たちに弾圧を加えます。リリーの強い勧めもあって、ついに同年暮れ、クレー夫妻はスイスへと亡命します。
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